Mar 11, 2009

学生の世帯の使用とレンタルサーバー

学生たちに重要なことはいろいろあるが、好奇心を持って挑戦するのも非常に重要になるです。レンタルサーバなどのサービスは非常に有用ではないでしょうか。目的に応じて選べるのが魅力です。レンタルサーバーの認知度を上げていく工夫もこれからは必要なのです。
インターネットゲームをよくやっている。今のサーバーは、回線が多いので、途中で"ブティック"と切れることがない。回線不能インターネットゲームデータの復旧まで半日から一日の時間がとられてしまう。これまで何もすることがなくなってしまう。ゲームをするための時間も作ったが残念だ。ネットゲームのデータの回復が早いか遅いか。私の一日のリズムが変わってしまう。
 6月11日、私は福島県南相馬市原町区に来ていた。震災の3カ月目をどこで取材をしようかと考えていたが、地震、津波、原発事故に揺れる南相馬市での取材を選んだ。原町区萱浜で鎮魂祭が開かれるのを知って、その会場に向かった。

【東日本大震災ルポ・被災地を歩く:震災から3カ月、南相馬に住むということ】

●緊急時避難準備地域に指定された町

 南相馬市原町区萱浜は、原発事故のあった東京電力・福島第一原子力発電所から約25キロ圏になる。このあたりは事故後、人口のほとんどが避難していたが、次第に人口が戻っりお店も開いているところが多くなってきた。しかし「緊急時避難準備地域」に指定されたこともあって、再び人口が減ってきている。

 この日の鎮魂祭では、ジャズミュージシャンの坂田明さんが「浜辺の歌」をサックスで演奏した。この日は震災3カ月目とあって、たくさんの報道陣が集まっていた。インタビューに応じた坂田さんは、どんな思いなのか?と聞かれ、「思いも何もない。ただ私ができることは祈るだけ」と答えていた。

 地域の人たちが集まる中で、神事が行われた後、坂田さんが静かに演奏を行った。地震が起きた午後2時46分には黙想をした。その中に、青森から来たという夫婦がいた。その夫婦は、青森在住の会社員・黒岡新太(26)さんと妻の香織さん(26)。2カ月の勇貴ちゃん(2カ月半)の遺影を持ち、泣きながら黙祷をしていた。

●青森から毎週末通っている

 新太さんと香織さんは2009年10月に結婚。ずっと「子ども欲しいね」と言っていたという。2011年1月、ようやく子どもを授かった。3月11日以降、勇貴ちゃんは行方不明のままだ。そのため2人は毎週末、勇貴ちゃんを探しにこの地を訪れている。

 新太さんは当時、青森で仕事をしている時に被災した。「ちょうど3月11日に、青森からこっちに来る予定だった。『早く仕事終わらないかな?』と思っていたら、こんなことになってしまった。最初は青森だけの地震だと思った。しかし、ラジオを聴いていたら、震源は宮城ということだった。そのとき、電話は通じた。津波警報が出ていたこともあり、『警報出ているから逃げろ』と言ったんです。ただ、この周辺の人は逃げなかった。チリ地震の時も大丈夫だったから、と。でも午後6時ぐらいに妻から電話があり、『勇貴がいない』と……」

 勇貴ちゃんが行方不明のままだが、新太さんはその心情についてこう話す。「まだ行方不明なので、早く見つかればいいな、と思っている。いまは青森に住んでいて、毎週のように探しに来ているが、なかなか見つからない。まだ8000人以上の人が行方不明なので、同じ気持ちの人がたくさんいると思う。まだ諦めきれない。運命かな、と思うけど、やりきれない」

 そう言いながら、勇貴ちゃんとの写真をスマートフォンで見せてくれた新太さん。

 「ちょうど笑い初めていて、写真もたくさん撮っています。家もなくなってしまったので、行くと辛い」

●守ってあげられなくてごめんね

 香織さんは里帰りをして実家に来ており、勇貴ちゃんを出産していた。3月11日には実家にいた。その後、いったん仙台に避難し、それから青森に戻った。

 「最初はすごく揺れ、家の中もぐちゃぐちゃになったんです。そのため一回、外に出て、祖母と部屋の片付けをしていたんです。気がついたら、もう津波が近くまで来ていた」

 香織さん自身も津波に飲まれてしまった。いったんは沈み、100メートルぐらい流されて、近所の建設会社にたどり着いたという。

 「今まで津波は来なかったし、地震もそんなになかった。好きな場所だったし、勇貴と過ごした場所がなくなってしまい、悔しい。……思い出は2階の部屋です。そこで3人で過ごしていました。そこだけは3カ月前のままなんです。不思議です。まだ寝ているような気がします」

 いま、勇貴ちゃんに声をかけるとすれば、どんなことなのだろうか。「まだ見つかっていないので、死んでしまったという実感が湧かない。はやく見つけたい。『守ってあげられなくてごめんね』と言いたい」

 生まれたばかりの子どもが近くにいながらも行方不明になってしまったために香織さんは、当初、自分を責めていた。「なんで自分だけ助かったのか。自分も一緒に死ねばよかった」

 なかなか自責の念が消えなかった香織さんを、新太さんは精神的なケアに努めた。「会社の人たちに、『相手がダメになれば、あんたもダメになる。嫁さんのことをフォローしろ』って言われました。こっちにいても原発事故のことがあったので、1週間後には青森に連れて帰りました。精神的なケアをして、自分を追い詰めることのないようにしていた。『守ってあげられなくてごめんね』ということしかできなかった」

 そうした新太さんのケアのおかげで、香織さんは気持ちの変化も出てきている。「今でも自分を責めることはある。でも、(勇貴ちゃんを)見つけてあげるのは自分しかいない。がんばって生きようと思う」

 鎮魂祭の後、2人は勇貴ちゃんを再び探しに行った。

●南相馬市に住み続ける理由

 南相馬市には取材したい家族がいる。大学時代の先輩夫婦が住んでいる、と別の先輩に聞いたのだ。子どもが3人いるのに、なぜ南相馬市から離れないのか。心配だったし、詳しく話を聞きたかった。

 待ち合わせ場所に、私の先輩である三条美幸さん(48)と、長女の志賀英美ちゃん(6)、次男の志賀文博ちゃん(3)が車でやってきた。文博ちゃんは私が持っていたガイガーカウンターに興味を持ち、話しかけて来た。家に着いても、カウンターで「測って!」と騒いでいる。数値の意味をどれだけ分かるのかは不明だが、場所によって数値が違うことは分かるようだ。

 美幸さんは、市内の老人保健施設でケアマネージャーとして働いていた。震災当時は、長男の志賀貞博君(15)が中学校の卒業式だった。働いていた施設は津波の被害にあった。亡くなった利用者もいたが、美幸さんは施設にいなかったために無事だった。

 その後原発事故のためもあり、3月16日午後に避難することになる。ガソリンがなかったために、一旦は栃木県那須塩原市に避難した。そして、実家のある埼玉県へ。

 それまでは葛藤があった。施設が壊滅的になっていたために、利用者を別の施設に振り分けることが必要だった。また、職員の雇用問題もあった。そのため「利用者と家族を天秤にかける」格好になっていた。

 夫の志賀久俊さん(46)は、美幸さんの実家へ避難していたが、その後、福島県いわき市四倉に行くことになる。美幸さんにとっての義父は当時、デイサービスを利用していた。そのバスが利用者を乗せたまま被災し、連絡が取れなくなっていた。その後、義父はいわき市内の病院へ運ばれたことが分かった。こうしたいきさつで、義母と久俊さんはいわき市へ行くことになった。

●「緊急時避難準備地域」は「危ないから絶対出ていけ」じゃない

 久俊さんも大変な思いをした。彼は浪江高校の教師をしていたが、高校は避難指示が出ている浪江町内にあるために、生徒の安否確認や高校をどのように存続するのかで揺れていたのだ。現在は、二本松市にある安達高校でサテライト授業をしており、そのため単身赴任の状態が続いている。

 「今は進路を担当しているが、まずは、求人の連絡先をどうすればいいのか。6月末には求人票の提出が始まるんです」

 美雪さんはずっと実家にいたものの、5月4日になって、貞博君の高校再開のめどがついた。原町高校は、相馬高校内でのサテライトが決まった。美雪さんが貞博君に意向を聞いてみると「原町高校に行きたい」と言う。理由は「友達がいるから」。

 しかし、美雪さんは心配の種が絶えない。現在の住宅は線量が低いとは言えないからだ。私が持っているガイガーカウンターでは、幹線道路沿いのコンビニで0.18μSv/h程度だが、美雪さんの家の庭の空間線量は1μSv/h前後だった。さらに側溝は3μSv/hを超えている。室内でも、窓際(暑いので窓を開けている)は0.6μSv/hくらいになっている。子どもたちの発ガンリスクを考えると、悩んでしまう。

 「原町区は『緊急時避難準備地域』で、それは『危ないから絶対出ていけ!』ではない。政府も『今は大丈夫』というものでしょ。決め手がない。絶対に危険と言われれば、長男を説得できると思う。でも、人口だって戻ってきているんです。長男の意志をねじ曲げてまで、避難させる根拠があいまい。かといって、長女と次男のことを考えると心配になる。私、30キロ圏内は『避難指示』になると思っていた。なぜ、グレーゾーンにしたのか。屋内待機って、それは見捨てられたと同じなんじゃない? もうメディアでは被災地は復興ムードになっているけど、福島はそれどころではない。忘れられていると思う。毎日が苦しいです、いつまでこんな状態が続くのか……」

 もし南相馬市から離れるなら、実家に戻るという選択があるが、現段階では長男が高校に通っているという状況がそれを許さない。であれば、相馬市に引っ越すという選択もある。私が「相馬市のほうが線量は低い」と話すと、それを一度は考えていた。しかし、これも長男の高校の事情がある。

 「今は、南相馬市から通っている生徒にはスクールバスが出ているんです。そのため、もし相馬市に引っ越すとなると、スクールバスが使えなくなるんです。相馬市に引っ越すにしても、相馬高校に近くないと、通学に不便になるんです。どうせ引っ越すとなれば、福島県内ではないですね」

●暑さ、洗濯――窓を開けないわけにはいかない

 一方、日常の生活もきつい。

 「窓を開けない方がいいというけど、暑くなると、(窓を閉め切っていると)死にますよ」

 たしかに、窓を閉め切っているのは暑いと感じる。この日は、窓は開けているものの、網戸と障子を閉めると暑いと感じる気温の高い日だった。また洗濯に関する悩みもある。

 「子どもが3人もいるので、洗濯物を干せないのも辛いですね」

 さらに、側溝の線量が高いと分かったので、美雪さんは子どもをそこに近づけさせないようにしている。しかし、いつそこで子どもが遊ぶか分からない。「水で流し、掃除しておきます。それだけでも違うんでしょうし」

 「緊急時避難準備地域」というグレーゾーンに住むのは、それ相応のリスクを検討しなければならないが、それを親に強いるのは、とても辛いことだ。自分で選択した結果は、子どもに跳ね返ってくる。十分な情報がない中で判断するのは、それだけでもストレスが高い。

 「あとで、渋井君が来た時に判断していればよかった、とならないようにしたいが……まだどうなるか」

 震災から3カ月。こうした悩みを抱えているのは、この家族だけではないだろう。こんな辛い選択をしなければならない現状を耳にしたら、政府はどう感じるのだろうか。

【渋井哲也,Business Media 誠】


【関連記事】
東日本大震災ルポ・被災地を歩く:冠水、悪臭、ハエ――震災から3カ月、被害が拡大している現実
相場英雄の時事日想:なぜ被災者を受け入れたのか? 新潟県三条市の市長に聞く
Posted at 08:07 in Tournament | WriteBacks (0) | Edit
WriteBacks
TrackBack ping me at
Post a comment

writeback message: Ready to post a comment.